いきなり告白します。
私は20代から不安神経症です。理由のない不安が来る、あれです。
「明日の会議大丈夫かな」じゃなく、「なんか知らんけど不安」という、スマートじゃない方の不安です。
ところがです。バックパッカーで東南アジアをふらふらしていた半年間だけ、その不安が消えたんですよ。完全に。
そもそも「不安」とは何なのか、文化人類学的に考えてみた
文化人類学の巨人クリフォード・ギアツは、「人間は自分で作った意味の網の中に住んでいる」と言いました。意味の網、ですよ。詩的ですね。
現代の私たちはどんな「意味の網」の中に住んでいるかというと、「キャリア」「老後」「SNSのいいね数」「昨日送ったLINEの既読」「同窓会での自分の立ち位置」などなど、非常に複雑な網の中に住んでいます。
そしてこの網が複雑であればあるほど、絡まりやすくなる。不安神経症という名のクモが、あちこちで待ち構えているわけです。
バックパッカーが「原始人モード」になる理由
文化人類学者のマーシャル・サーリンズは、狩猟採集民を「最初の豊かな社会」と呼びました。彼らは今日食べるものを今日狩ればよかった。老後の心配をしていなかった。「部族内でのポジショニング」に悩んでいなかった(たぶん)。
バックパッカーの生活、これに近いんです。
バックパッカーの一日(原始人比較付き)
🌅 朝起きる → 「今日どこ行く?」(原始人:「今日どこで狩る?」)
🍜 昼 → 「めし食う」(原始人:「めし食う」)
🛏️ 夜 → 「寝る場所確保」(原始人:「寝る場所確保」)
一致率:ほぼ100%。私たちはザックを背負って原始人に先祖返りしていたんです。
「食べる・寝る・移動する」で頭が全部埋まると、「3年後のキャリアパス」とか「あのとき言い返せばよかった」みたいな思考が入ってこない。
これを文化人類学的に言うと、「意味の網からの一時的な離脱」です。かっこよく言えばそうなる。
「リミナリティ」という概念で全部説明できてしまう件
文化人類学に「リミナリティ(閾性)」という概念があります。ファン・ヘネップという人が提唱し、ヴィクター・ターナーが発展させました。「通過儀礼の途中にある、どっちつかずの状態」のことです。
リミナリティとは
「もとの自分」でも「なったあとの自分」でもない、変容の途中にある曖昧な状態。通過儀礼(成人式、入学式、結婚など)の「間」に生じる。この状態にある人は、通常の社会的役割から解放され、共同体(コミュニタス)を形成しやすい。
バックパッカー、これです。「社会人でも学生でもない、旅の途中にいる人間」というのは、リミナリティの状態にある。社会的な役割から解放されている。だから「〇〇会社の五十嵐さん」という意味の網から外れて、ただの「けーた」になれる。
そしてターナーが言うように、リミナリティの状態にある人たちは「コミュニタス」を作りやすい。バックパッカーのゲストハウスで、昨日会ったばかりの外国人と妙に仲良くなれるあの感じ、まさにこれです。
では、旅から帰ったらどうすればいいのか問題
帰国したら、意味の網は戻ってきます。そして不安神経症のクモも戻ってくる。これは避けられない。
文明社会に生きる以上、意味の網を完全に捨てることはできません。
でも文化人類学から学べることがあるとすれば、「意味の網は文化によって違う」ということです。日本の意味の網が全てじゃない。東南アジアを旅しながら気づいたのは、まったく違う「意味の網」の中で生きている人たちが、楽しそうにしているということでした。
「正しい生き方」は一つじゃない。それを体で学ぶために、人は旅に出るのかもしれない。
まとめ:バックパッカーは意図せず文化人類学的実験をしていた
というわけでまとめると、バックパッカー中に不安神経症が消えた理由は次の通りです(文化人類学的解釈)。
まとめ
① 「食べる・寝る・移動する」という原始的な生存課題に集中することで、複雑な「意味の網」から一時的に離脱できた(サーリンズ的解釈)
② リミナリティの状態に入ることで、社会的役割から解放され、本来の自己に近づけた(ターナー的解釈)
③ 異文化に触れることで「自分の意味の網は唯一絶対ではない」と身体で理解し、不安の相対化が起きた(ギアツ的解釈)
④ 単純に楽しかった(個人的解釈・最重要)
文化人類学は難しい学問に聞こえますが、要するに「人間はどう生きているか」を観察する学問です。
自分の体験を振り返るときにも、こういう概念を当てはめてみると、新しい見え方ができて面白い。